自己紹介
コーヒーとの出会い
学生時代、私は他の人より少しコーヒーが好きで、喫茶店に入ると、気取ってストレートを注文したりしていました。
でも、苦かったり、酸っぱかったり、嫌な味が口の中に残ったり…。
コーヒーを心からおいしいと思っていたわけではありません。
「こういう味をおいしいと感じるのが大人なんだろうな」と無理に納得していただけなのです。
ただ、「コーヒーのおいしさは、こんなものではないはずだ」という予感もありました。
そんな頃、友人から銀座の「カフェ・ド・ランブル」の名前を聞いたのです。
「一度親爺に連れてかれたんだけどさぁ、そこは日本一の珈琲屋なんだって!俺には味の事は分からないけれど、確かに通の店って感じだったよ」
数日後、私はドキドキしながら「ランブル」に出掛けて行きました。
カウンター席に陣取る常連客たちのお尻を眺めながら、私はテーブル席でひとりコーヒーを待ちました。
やがて出てきたコーヒーは、
心の浮き立つ、芳ばしい香り。
体中に拡がって行く、心地よい苦み。
飲み終えたあとの、何とも言えない満足感。
「これがコーヒーなんだ!」私は心の中で叫びました。
その日から、貧乏学生の食費を削ってのランブル通いが始まりました。
何回目かには、意を決してカウンターに座りました。
お店の人が顔を覚えてくれた時はうれしかったなあ。
どんどんコーヒーが、本当に好きになっていきました。
家で、ひたすらランブルの真似をしてコーヒーを淹れてみました。
焙煎も、手回しの小さな器械で何百回も練習しました。
「ランブル」さんは、私をコーヒーに目覚めさせてくれました。
そして深煎りコーヒーの魅力を教えて下さいました。
コーヒー店に就職
楽しかった学生生活も終りが近づき、就職を決めるときが来ました。
「俺は、ものを作る仕事がしたい」などと言ってはみたものの、私が学生生活で多少なりとも身に付けたことと言えば、コーヒーだけ・・・。
珈琲屋にでもなるしかなかった、というのが正直なところです。
卒業式も待たず、「煉瓦亭」(田園調布)で働き始めました。
「煉瓦亭「には6年間勤め、チーフも経験しました。
コーヒーは相変わらず楽しく、少し自信もついたりしていました。
ただ、趣味を仕事にした気楽な人生でいいんだろうか?という思いは残っていたのです。
コリアスとの出会い
そんな私にとって大きな転機は「サルーン・コリアス」(田園調布)との出会いでした。
「コリアス」は、たまたま「煉瓦亭」の近くにあった珈琲店なのですが、そこのボスのコーヒー・紅茶に関する技術や知識が、まさに驚異的なものだったのです。
彼はそれ以外の分野でも、博覧強記ぶりを発揮する謎の人物でした。
だからといって最初から私が「コリアス」のコーヒーを大好きだった訳ではありません。
コリアスは浅煎りコーヒーの酸味を生かした味を特徴としていたので、学生時代からずっと馴染んでいた深煎りコーヒーの苦み主体の味とは、だいぶ趣が違っていたからです。
ところが、「変わった店だなあ」と思いながら、仕事帰りに時々飲みに行くうちに、いつの間にか浅煎りコーヒーの虜になっていたのです。
「浅煎りコーヒーがこんなに甘いものだったとは」
コーヒーの酸味は、不思議な動きをすることがあります。
軽やかに舌の上を移動したり、舌先でフワッと霧散したり…。
飲んだ人は、そのとき「甘い」と感じてしまうのです。
私は、コーヒーが秘めた、別の可能性や魅力に目を開かされました。
彼の技法は、自分のコーヒー人生に必要不可欠だと思えました。
でも、客の立場から、彼の知識を吸収するだけで妥協しようと考えていました。
「コリアス」は働くにはかなり勇気のいる、特有な雰囲気の店だったからです。
コリアスでの修行時代
「君の実力はコーヒー暦1年くらいのものだね」
彼にそう挑発されて、自信を持って反発できない私がいました。
私は、「コリアス」で働いて、コーヒーを初めからやり直すことを決心しました。
「職人に成れ!」
が、仕事を教えるときのボスの口癖でした。
「お前らの考え付くようなことは、とっくに昔の人がやっている」
「黙って言われた事をやれ」
「体で覚えろ」
「先人が築いてくれた基本を、まずその通り学べ」ということです。
料理界などでは当り前のことなのでしょうが、コーヒー界にそんな伝統があるとは…。
縛られない気ままな生活がしたくて、珈琲屋を仕事に選んだ私でしたから、初めの頃は抵抗がありました。
「職人なんて地味な生き方はいやだな」とも思いました。
でもボスの技術をどうしても学びたかったので、「コリアス」での10年間に、私は自分を作り変えました。
その間、ボスを絶対視してしまう行き過ぎはありましたが、後悔はしていません。
そこを通過しなければ、趣味の延長のまま自己満足的に「こだわりの珈琲屋」になっていたでしょうから…。
こだわりを売り物にするのが職人ではない。
と私は思います。
職人は自分では、こだわっているつもりはないのです。
ものを作るのに必要なことを、淡々とこなしているだけだからです。
職人は自分の仕事に誇りは持っていても、ひたすら謙虚です。
「コリアス」は、コーヒーの奥深さと、浅煎りコーヒーの魅力を教えてくれました。
そして、心の片隅に物足りなさを残していた私に、コーヒーの仕事へのやりがいを与えてくれました。ちなみにボス自身は職人ではなかったと思います。天才的ではありましたが。(笑)
コリアスの閉店そして独立
「もう誰も教えてくれない」
「コリアス」が閉店になると聞いて私はショックでした。
ボスのコーヒーは私にとって、途轍もなく高い山です。
頂上は霧が掛かって見えませんでした。
終りの頃、ようやく霧が少し薄くなって来ていたので、閉店は残念でしたが、仕方ありません。
もう、一人で歩く他ないのです。
「私の所でお店をやりませんか」
「コリアス」が閉店になったのを機に独立を考えていた私に、声を掛けて下さったのは、柏「竹やぶ」のご主人、阿部さんでした。
その気があるなら、「竹やぶ」の敷地内に店を建てて下さるというのです。迷った末、私は阿部さんのご好意に甘える事にしました。
1994年6月、阿部さんのご協力により、柏の郊外に「ストリームヴァレー」を開店することが出来ました。
ストリームヴァレーでの10年
~私のめざすコーヒー~
「ランブル」と「コリアス」のコーヒーには、深煎りと浅煎りの違いを越えて、共通点がありました。
それは「コーヒー液が透き通っていること」です。
見た目が透き通っていることは「味が透き通っている」ということでもあります。
「ストリームヴァレー」でも、それは大きな柱です。
私の持論は「おいしいコーヒーは体にやさしい」ですが、
「コーヒー液が透き通っていないと体にやさしくない」からです。
~私の夢~
コーヒーは素晴らしい飲み物です。
ときに「夢見心地になる」ほど、おいしく入ることもあります。
稀に私でもそんなコーヒーが出来てしまうことがあります。
何千回に1回かな(笑)。
少しでも高い確率で、そんなコーヒーが作れるようになるのが私の夢です。私の生きがいです。
それほどでないにしても、お客様が「思わず笑顔になるコーヒー」を作りたいと、毎日願っています。
~自分の世界~
しかし、難しいのです、コーヒーというやつは! (だから、おもしろいとも言えます)
ドリップする時のポットの持ち方のちょっとした違いで、はっきり味が変わります。
焙煎も、火加減とダクトの調整の組合せは無数にあるといえます。
教わったことをひとつひとつ思い出してみるのですが、それだけでは、充分ではありません。コーヒーを淹れる時の身体の使い方から、自分のコーヒーの世界を組み立て直しました。
仮説を立て
試してみて
飲んで分析して
また仮説を立てて
焙煎も抽出も、それを限りなく繰り返すほか、方法はありません。
どうしても行き詰ることもしばしばです。
そんな時、むしろコーヒー以外の分野からヒントを探しました。
カクテル、ワイン、紅茶、茶道、武術論、色彩論、エニアグラム、etc.
散々もがいて、ようやく1つ答が見つかった時、
「あっ、ボスはこのことを伝えようとしていたんだ!」
と、改めてボスの凄さに思い至るのです。
今、彼にこのことを話せないのが残念です。
(ボスは、「コリアス」の閉店から2年後に亡くなりました)
私は道に迷いながらも、何とか山を登って来たつもりです。
何年か前に「裾野から稜線には出たかな」と感じたりして…。
でも頂上は遥か先です。
現在
つい、きのうの事のようなのですが、ランブルで飲んだあの一杯から、かれこれ30年が過ぎてしまいました。
ストリームヴァレーが生まれてからでも、早10年になります。
振り返ってみて、呆れるほどコーヒーとばかり向かい合ってきました。
自分でもどうしてこんなにコーヒーが好きなのか分かりません。
いつの頃からか、コーヒーは私にとって掛け替えのないものになっていました。
私は何をするにしても、コーヒーの役に立つところを探してしまいます。
また、コーヒーに当てはめて考えると、他分野のことも理解しやすいのです。
目指すコーヒーは何度か変わりました。今も微妙に変わりつつあります。
好きな味が変化するのは自然なことです。
コーヒーは答のない世界だと思います。だから楽しいのです。
私はおそらく最期まで、その時、自分が飲みたい味を作り出すために、試行錯誤を続けているだろうと思います。
2004年 ストリームヴァレー 池田雅之